스토리/역사속으로
朴烈事件
marineset
2023. 5. 29. 00:02
私は犬コロでございます
空を見てほえる
月を見てほえる
しがない私は犬コロでございます
位の高い両班の股から
熱いものがこぼれ落ちて私の体を濡らせば
私は彼の足に 勢いよく熱い小便を垂れる
私は犬コロでございます
나는 개새끼로소이다
하늘을 보고 짖는
달을 보고 짖는
보잘 것 없는 나는 개새끼로소이다
높은 양반의 가랑이에서 뜨거운 것이 쏟아져 내가 목욕을 할 때
나도 그의 다리에다 뜨거운 줄기를 뿜어대는
나는 개새끼로소이다
朴烈事件
ぼくれつじけん
朴烈夫妻の天皇・皇太子暗殺計画事件および司法当局の両名に対する処遇が政治問題化した事件。在日朝鮮人で無政府主義者の中心人物たる朴烈(1902―74)は、その妻金子文子(かねこふみこ)とともに、関東大震災直後、朝鮮人迫害事件のさなかに検束された。多数の朝鮮人を虐殺した官憲は、その言い訳のために、朴烈夫妻に対し、1923年(大正12)秋挙行予定の皇太子婚儀に際し、天皇と皇太子を要撃する計画であったという自白を強要し、26年3月25日、大審院は大逆(たいぎゃく)罪として両名に死刑を宣告した。政府は政治的効果をねらい4月5日、大赦令をもって無期懲役に減刑した。7月23日金子は獄中で縊死(いし)した。7月29日、取調判事立松懐清が東京地裁で撮影した夫妻抱擁の写真を掲げ、両者に対する当局の優遇を非難する印刷物が各方面に配付された。これは北一輝(きたいっき)らのしわざである。北の黒幕たる小川平吉(へいきち)と森恪(かく)を先頭に、野党の立憲政友会と政友本党はこの問題をとらえて若槻(わかつき)礼次郎憲政会内閣を攻撃し、年末には議会解散、普選実施の気運が高まった。しかし若槻は解散を決断しえず、解散を野党の不利とみた政界の黒幕松本剛吉(ごうきち)の策により、第52議会の休会明けの両野党の内閣不信任案提出を機会に翌27年(昭和2)1月20日三党首会談を開き、昭和新政の初めにつき政争の中止を求め、政友会田中義一(ぎいち)、政友本党床次(とこなみ)竹二郎の両党首は議会後の政権たらい回しを期待してこれに応じた。朴は敗戦まで在獄した。[松尾尊兌]
『我妻栄他編『日本政治裁判史録 大正』(1969・第一法規出版) ▽再審準備会編『金子文子・朴烈裁判記録』(1991・黒色戦線社)』
[参照項目] | 金子文子 | 関東大震災 | 北一輝
出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

1926년 7월 31일 동아일보
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------
金子文子(かねこ・ふみこ)はアナーキストでありました。
金子文子第2の大逆事件といわれる「朴烈事件」で無期懲役になります。
この年の9月、関東大震災後の異常事態のなか、無政府主義グループ「不逞社」に対する取り締まりが行われ、朝鮮独立運動の闘士で実質上の夫である朴烈や仲間とともに警察に検束されました。
3年近い勾留と取り調べの末、「皇太子に爆弾を投げようとした」として大逆罪の容疑者に仕立て上げられ、朴とともに死刑を宣告されます。
反論していた文子は、途中から裁判を闘争の場に選び、一貫して天皇制批判をおこないました。恩赦によって無期懲役になりましたが、激怒して減刑状を破り捨てます。
栃木女子刑務所に移された後、看守のすきを見て自ら命を絶ちました。
23歳の若さでありました。
金子文子は無籍のまま放置されたため、幼いころから差別を受けて育ちました。父や母に捨てられ、9歳のときに朝鮮にいる親戚に引き取られましたが、7年間にわたり虐待を受けます。
帰国後、上京して新聞の売り子や行商、女中などをしながら夜学で学びます。差別と貧困のなか、社会主義者や無政府主義者、朝鮮人学生らと交流し、急速に思想を形成していきます。
朴と出会い、不逞社を結成、機関紙を発行しました。
まさに鮮烈で、薄幸なる生涯ではなかったかと思います。
神奈川県生まれ(1903~26年)。
空を見てほえる
月を見てほえる
しがない私は犬コロでございます
位の高い両班の股から
熱いものがこぼれ落ちて私の体を濡らせば
私は彼の足に 勢いよく熱い小便を垂れる
私は犬コロでございます
나는 개새끼로소이다
하늘을 보고 짖는
달을 보고 짖는
보잘 것 없는 나는 개새끼로소이다
높은 양반의 가랑이에서 뜨거운 것이 쏟아져 내가 목욕을 할 때
나도 그의 다리에다 뜨거운 줄기를 뿜어대는
나는 개새끼로소이다
朴烈事件
ぼくれつじけん
朴烈夫妻の天皇・皇太子暗殺計画事件および司法当局の両名に対する処遇が政治問題化した事件。在日朝鮮人で無政府主義者の中心人物たる朴烈(1902―74)は、その妻金子文子(かねこふみこ)とともに、関東大震災直後、朝鮮人迫害事件のさなかに検束された。多数の朝鮮人を虐殺した官憲は、その言い訳のために、朴烈夫妻に対し、1923年(大正12)秋挙行予定の皇太子婚儀に際し、天皇と皇太子を要撃する計画であったという自白を強要し、26年3月25日、大審院は大逆(たいぎゃく)罪として両名に死刑を宣告した。政府は政治的効果をねらい4月5日、大赦令をもって無期懲役に減刑した。7月23日金子は獄中で縊死(いし)した。7月29日、取調判事立松懐清が東京地裁で撮影した夫妻抱擁の写真を掲げ、両者に対する当局の優遇を非難する印刷物が各方面に配付された。これは北一輝(きたいっき)らのしわざである。北の黒幕たる小川平吉(へいきち)と森恪(かく)を先頭に、野党の立憲政友会と政友本党はこの問題をとらえて若槻(わかつき)礼次郎憲政会内閣を攻撃し、年末には議会解散、普選実施の気運が高まった。しかし若槻は解散を決断しえず、解散を野党の不利とみた政界の黒幕松本剛吉(ごうきち)の策により、第52議会の休会明けの両野党の内閣不信任案提出を機会に翌27年(昭和2)1月20日三党首会談を開き、昭和新政の初めにつき政争の中止を求め、政友会田中義一(ぎいち)、政友本党床次(とこなみ)竹二郎の両党首は議会後の政権たらい回しを期待してこれに応じた。朴は敗戦まで在獄した。[松尾尊兌]
『我妻栄他編『日本政治裁判史録 大正』(1969・第一法規出版) ▽再審準備会編『金子文子・朴烈裁判記録』(1991・黒色戦線社)』
[参照項目] | 金子文子 | 関東大震災 | 北一輝
出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

1926년 7월 31일 동아일보
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金子文子(かねこ・ふみこ)はアナーキストでありました。
金子文子第2の大逆事件といわれる「朴烈事件」で無期懲役になります。
この年の9月、関東大震災後の異常事態のなか、無政府主義グループ「不逞社」に対する取り締まりが行われ、朝鮮独立運動の闘士で実質上の夫である朴烈や仲間とともに警察に検束されました。
3年近い勾留と取り調べの末、「皇太子に爆弾を投げようとした」として大逆罪の容疑者に仕立て上げられ、朴とともに死刑を宣告されます。
反論していた文子は、途中から裁判を闘争の場に選び、一貫して天皇制批判をおこないました。恩赦によって無期懲役になりましたが、激怒して減刑状を破り捨てます。
栃木女子刑務所に移された後、看守のすきを見て自ら命を絶ちました。
23歳の若さでありました。
金子文子は無籍のまま放置されたため、幼いころから差別を受けて育ちました。父や母に捨てられ、9歳のときに朝鮮にいる親戚に引き取られましたが、7年間にわたり虐待を受けます。
帰国後、上京して新聞の売り子や行商、女中などをしながら夜学で学びます。差別と貧困のなか、社会主義者や無政府主義者、朝鮮人学生らと交流し、急速に思想を形成していきます。
朴と出会い、不逞社を結成、機関紙を発行しました。
まさに鮮烈で、薄幸なる生涯ではなかったかと思います。
神奈川県生まれ(1903~26年)。
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